「現代正義論」補講

「現代正義論」の補講です

テキスト筆者が理解できなかった「取り返しがつかない」の意味

 テキスト筆者を誤解させたかもしれないのが、「取り返しがつかない」が程度問題だということを筆者が十分に理解していないと思われることだ。
 「百歩ゆずって、「取り返しのつかなさ」には質的な違いがあり、上記のような場合には「生きているかぎりはある程度は取り返しがつく」と言えるとしよう」(p205)
 いちおう認めてはいるものの、「百歩ゆずって」という消極的な形なので、あとに引きずってしまったように見える。
 
 さて、そもそも「取り返しがつかない」ことは程度問題だろうか。
 日本語の通常の用法としては、程度問題と考えられていると言っていいだろう。もし、「取り返しがつかない」ということが程度問題でなく、取り返しがつくかつかないかの二者択一で答えなければならないとしたら、すべての事象は取り返しがつかないというほかない。時間は一方向にしか流れないからだ。だが、われわれは、ふつう「取り返しがつかない」ことを程度問題であると考えているので、ふつうに「取り返しがつく」と表現する事例がある。

 簡単な設例でその事説明しよう。
 
 あなたはスマホを見ながら公園を歩いていた。画面に引き込まれていたため、前をゆっくり歩いていた人にぶつかってしまった。その人はぶつかられた衝撃で、持っていたソフトクリームを落とすことになった。

 地面に落ちたソフトクリームを、元の状態に戻すことはできない。その意味で、あなたがソフトクリームを台無しにしてしまったことは「取り返しがつかない」と表現できる。しかし、あなたも被害者も「取り返しがつかない」ことをした・されたとは思わないはずだ。

 「取り返しがつかない」ということばは、一定以上重大な問題についてつかう表現である。そして、この「一定以上」の判断は人によって異なる主観性がある。

 ソフトクリームを台無しにしてしまったことへの償いは、代金の弁償で行うことが普通だろう。代金を支払い、被害者がそれで満足したら、それで「取り返しがついた」と表現していいだろう。たとえ、ソフトクリームがもとに戻るわけではなく、被害者にはまた買い直しに行かなければならないという手間がかかるとしても。

 だが、落としたソフトクリームがその日にしか買えない特別限定品だった場合どうだろう。代金を払ってもらっても少しも嬉しくない。もうあのソフトクリームは2度と食べられない。お前のしたことは「取り返しがつかない」と言って責められたらどうだろうか。
 とはいえ、そのような場合でも、補償金の額を多くするなどして、相手が満足したら、「取り返しがついた」と表現して差し支えないと思われる。

 

 誤判の場合、死刑で殺されることと、無期懲役になることとの間にははっきりとした程度の差がある。そのことは、テキストで扱っている誤判の場合にはよりはっきりしていると言えるだろう。講義でも説明したが、「無実の罪で有罪判決を受けた時、死刑と無期懲役のどちらでも同じ」と思う人がいるだろうか。生きている限り、弁護士と協力して自分の無実を明らかにする希望がある。

 筆者は、程度の差を無視して、無期懲役で失った時間も取り返しがつかないと考えていたために、「死刑と無期懲役は『取り返しがつかない』という点で同じ」という誤った推論をしてしまったのかもしれない。

 

 

「現代正義論」補講

『正義論 ベーシックスからフロンティアまで (法律文化社)』
第11章「死刑」で、筆者の児玉聡氏は、
無期懲役中にガンで死ぬことがあるから、死刑と無期懲役
「取り返しのつかない」という点で同じである】と主張しています。

     (引用ではなく要約です)

その誤りについて講義で説明しましたが、わかりにくいところが
ありましたらコメントで質問してください。

 

対象は2021年度の受講生です。